中津新聞

2019.04.10

”自分らしい働き方”を見つけた誠実なフリーランサー|編集ライター&デザイナー・眞田健吾さん

今回のインタビューは、中津界隈に拠点を持ち、季刊紙「cycle(サイクル)」の編集を手掛けている眞田健吾さんです。「cycle」は、自転車の初心者と文化系自転車乗りのためのフリーペーパー。全国の約850ヵ所(2019年1月現在)に設置されています。「cycle」というだけあって自転車にまつわる誕生秘話があるのかな、と思っていると、どうやら違うようです。素敵な笑顔の背景には、はたしてどんな人生があるのでしょうか?


変人にやさしい学生街へ


眞田さんは昭和56年に香川県高松市で生まれ、高校までを香川県で過ごしました。その後、幼少期からものづくりが好きだったということで、京都造形芸術大学・情報デザイン学科に進学。本人曰く、“何でもアリ”な学科だったらしく、アートやデザイン、立体造形などを幅広く学んだそうです。このとき、京都の学生街の独特な雰囲気が眞田さんの価値観に大きな変化を与えました。

“学生という括りでいろんな人が坩堝(るつぼ)になっているワンダーランド”

これは、眞田さんがつけた京都市左京区のキャッチコピーです。「大学が密集している、学生運動当時の雰囲気が残っている、京大と芸大があり変人が多い」というお祭り騒ぎにならないほうがおかしいような条件がそろっており、学生たちはそれぞれの個性を全開にしていたそうです。そして、この町には昔からそれを許容してきた文化があるのだとか。

眞田さんは学生時代にそんな環境に身を投じることができて「ラッキーだった」と言います。高校までは、自分を表現することにためらいがあった眞田さん。しかし、いろんな価値観を認めてくれる仲間との出会いや文化を体験し、自分らしさを表現することへの心理的な障壁を壊すことができました。そして、大学でアートの分野で飛び抜けた才能のある人を目の当たりにした眞田さんは、漫画やアニメなどのサブカルチャーへの造詣を深めていったそうです。自転車が趣味になったのもこの時期です。

独立までの道程、“好き”を仕事に


大学卒業後は、1年半の休憩(フリーター)期間を経て、アパレル業界の会社に就職。副資材(タグやポップなど)のグラフィックデザインを担当しました。さらに1年半後、もともと興味があった雑誌の編集プロダクションに転職。このときの「旅の情報雑誌の半分をたった2・3人で取材から編集まで行う」といった仕事に忙殺される日々が、今の眞田さんの基礎をつくりあげました。

その3年半後、「もっと自分の想いを形にできる制作会社に転職したい」と思い、編集プロダクションを退社。その後、前職とは打って変わって、なんと滋賀県の彦根にある「NPO法人五環生活」に所属し、レンタサイクル事業の立て直しを牽引しました。参加のきっかけは、趣味の“自転車”というワードが引っかかったこと。ここでは、半年で基礎を作って所属を離れたそうです。次こそは制作会社に!と思いきや、もう1つ他業種に身を置くことに。


それは、縫製工場で使う機械設備メーカーのセールスエンジニア。北は北海道、南は鹿児島まで全国を飛び回り、あっという間の4年間でした。さらに、眞田さんはその会社を通して日本の社会の縮図を目の当たりにします。過重労働、人手不足、ピラミッド型組織のヒエラルキー・・・。そして疲れ果てたある日、ふと気が付きます。

―― 『自分はここにいるべきじゃない』。

眞田さんは当時を振り返りこう語っています。
「編集プロダクションのときより会社としての安定はありました。でも自分が60歳までここにいれるかって考えたときに、耐えられん、と思いました」。
「ただ、今までの転職経験から何の仕事をしてもしんどいのは分かっています。それなら、“好きな仕事”で苦労するほうが良い。我慢できるし楽しいですから。そこから、雑誌をつくるとか、クリエイティブな世界が自分は好きなんだなって改めて理解できました。今考えると4年間は無駄ではなくて、逆説的に自分の想いを確認するために必要な時間でした」。


機械設備メーカーを退職後、制作会社への再就職を検討しますが、難しいと考え独立することに。ここでやっと季刊紙「cycle」が登場します。「cycle」は、眞田さんの友人が独立する際に勤務先から引き継いだ媒体。眞田さんの独立がちょうど同じタイミングだったため、「一緒に作ろう」という話になり今の体制になったそうです。

もちろん、眞田さんの仕事はそれだけではありません。制作会社から編集業務を受注し、完成までのディレクターを務めることもあります。テーマ決めから取材先の選定、アポ取りのための企画書作成、紙面編集など、仕事は多岐にわたります。取材先の中には老舗の料亭などもあり、どんなに練った企画書を持っていっても取材をお断りされることも。だからこそ、ハードルの高いお店や取材NGのお店で許可が取れたときの喜びは大きいそうです。


受注業務をしながらも「cycle」の編集を続けているのには、特別な意味があるそうです。受注業務には基本的にクライアントがあり、その要望を形にする仕事。しかし、「cycle」はクライアントありきではなく、自分たちの意志で発行する媒体です。したがって、自分たちがいいな、と思うことを盛り込むことができ、自分の感性を相手に伝える名刺代わりにもなります。そして“何よりも楽しい”と眞田さんは話します。

「僕は独立してから1度も営業活動したことがありません。人からの紹介などの繋がりでいただいたお仕事を真摯に真面目にやって、そして安心して任せられる人だな、という信頼を積み重ねていくことを大切にしています。適当な仕事をすると2度と仕事は来なくなりますから」。眞田さんは当たり前のように話していましたが、これは高いプロ意識と覚悟が無ければ語れないことです。眞田さんの謙虚で真面目な人柄が周りの人に安心感を与え、仲間を引き寄せているのだと感じました。

中津への思い、レイヤーでつくる多様性


中津に住宅を構えたのは“たまたま”だったと語る眞田さん。セールスエンジニアをしていたときに東京から近畿の営業所へ転勤の話があり、中津は勤務地へのアクセスがよく、友人も住んでいたので選んだそうです。実際に住んでみて、商業地域のすぐとなりなのに静かな佇まいの“下町感”が気に入っているそう。

ここで少々切り込んだ質問を。
「うめきたの開発、大阪万博の開催に伴い、中津にどんな発展を期待しますか?」
すると、眞田さんの穏やかな性格を表すような答えが返ってきました。

―― 『無理せず優しく重ねていくやり方が嬉しいな、と思います』。

「先日、高松市の仏生山温泉を手がけている岡昇平さんの講演が中之島中央公会堂であったんですが、“まちはレイヤーで成り立っている”、というお話が印象的でした。まちというのは、住んでいる人のレイヤーによって見え方が違っている。岡さんは自分のまちづくりを、“まちを変えよう”じゃなくて、“レイヤーをひとつ重ねた”と話されていたんです。それを聞いたとき、おぉ~!となって」。
「中津でも誰かが旗を振って“こんなまちにしよう!”などと大きな声をあげると、実はその時点で誰かの色に染まってしまうのかもしれません。お子さん連れのレイヤー、クリエイターのレイヤー、学生のレイヤー、とかいろんなレイヤーが共存している方が良いな、と思います。今の中津はいろんなレイヤーが重なってせっかく良い意味でカオスなまちでもあるので、その上に優しくふわっと重ねるやり方のほうが僕好みですね」。


穏やかだけど言葉に芯がある眞田さんのお話の中で、もうひとつ印象に残ったのが「(まちづくりをするにあたって)たまたま住む場所として中津だったという人がいることを忘れてはいけません」というものです。
これまでの人生の中で、人とまちの多様性を体感してきた眞田さんだからこその言葉だと思いました。同時に、私たちが見失いがちな大切なことに丁寧に目を向けていると感じ、眞田さんの優しさに触れた気がしました。

 

文/岩宗 勇希(中津新聞)


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